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私は
「あなたの生が無価値で無意味であることを受け入れた上でなお誇りを持って生きよ」
と説いているのがSFではないか?と考えています。
・・・
blacksheepで最近演奏している曲に『時の声』『滅びの風』という曲があります。
『時の声』は作家・J.Gバラード、『滅びの風』は作家・栗本薫さんそれぞれの作品のタイトルであり、2009年に亡くなられた二人に捧げられています。
二人の素晴らしき作家の数ある作品の中で、なぜこのタイトルを選んだのか?
『時の声』というタイトルの短編、及びその短編の名を冠した短編集(東京創元推理文庫)そして連作短編集『滅びの風』(ハヤカワ文庫)、共に私にとって「SFとはなにか?」さらに「フィクションとはなにか?」を考える上で非常に重要な作品なのです。
例えば『滅びの風』に収録された『巨象の道』。
『滅びの風』のシリーズの中でも、私が特に思い入れの強い短編なのですが・・・SFをSFたらしめる「ガジェット」「記号」をほとんど用いずに、しかしSFとしか呼びようのない作品として成立し、SF的としか言いようのない感動(感情の動き・・・)を生む。そうした作品です。
ではSFをSFたらしめる要素とはなんなのでしょう?
それを、SFに関わる人・SFを愛する人たちは「センス・オブ・ワンダー」という言葉で呼んでいます。
それは「視点」であり「発想」であり、さらにそうした全てをひっくり返して人を瞠目させる「何か」であり・・・
・・・私はそんな「センス・オブ・ワンダー」を問われる表現形態として、音楽があるように思っているのです。
エリック・ドルフィーが残した言葉のように、音を放った次の瞬間には空気に溶け込んでしまう「意志」というヌエのようなモノに、どれだけの誇りと、さらにそれを第三者的に見つめる視点を持ち得るか。
聴き手に見えている視点(それはその瞬間には平面的に見えるであろう)を覆し、立体的な「何か」として提示する感覚。
そうした意味で、私は音楽とはSFである、と考えているのです。
であれば、「SFとはなにか?」を考える上で重要であると私が感じる作品の名を曲に冠することによって、SFにとって重要で有り続ける作家の追悼と成すのは必然なのです。
・・・
私が考えるSFの「定義」
「あなたの生が無価値で無意味であることを受け入れた上でなお誇りを持って生きよ」
という感覚を、音楽の皮膚下に潜ませて表現したいと考えています。
2009年のblacksheepのライブは終了しました。
今年一年、ありがとうございました。
と言ってもメンバーは個々に演奏の日々を送っております。
2010年のblacksheepのライブは1月14日(木)関内『エアジン』から始まります。
また来年もよろしくお願いします。
さて。
前回の続きですが。
blacksheepを始めるにあたって、私はそれまでに書いたオリジナル曲ではなく、このトリオのために書き下ろした曲をレパートリーの中心にしようと考えました。
これはエリントンや武満徹氏の影響と言えますが、演奏フォーマットを前提にするのではなく、奏者の個性を前提にして楽曲を書くのが私の好みなのです。
とはいえ当時はまだ付き合いの浅い三人でしたので、心掛けたのは「できる限りシンプルに」という事でした。
私は色彩感のあるハーモニーが好きで、一見「変な」音響構造を持つ楽曲を書くことが多いのですが、初期のblacksheepでは、できる限りシンプルな「管の二声」で成立する音響を中心に据えることにしました。
書き下ろし、最初のライブで響いた音からフィードバックして、少しづつ「響き」に踏み込んで行き・・・『アーク灯の夢』等の「響き」重視の作品や、元々のシンプルな構造をディフォルメした『時の声』等を書く事になるのです。
初期の作品(アルバム『blacksheep/blacksheep』収録の楽曲群)の題名には「・・・の夢」という曲が多いです。
これは、ロジェ・カイヨワの『夢の現象学』の影響があります。
カイヨワはこの著作において
「創作において夢を混沌の記号として用いるべきではない。夢には明確な論理構造があるからだ。しかしそれは夢の内部でのみ有用な論理構造であり、目覚めてしまうとその論理構造を理解できず、結果「夢とは混沌」というように理解してしまう」
という事を述べています。
この考え方はそのまま、特定の音楽コミューン内部における「演奏上のローカル・ルール」とでも言うべき構造にあてはまるように思われるのです。
フリーインプロヴィゼイション・ミュージックと呼ばれる音楽の大半は、その「夢の論理」とも言うべきローカル・ルールを用い、なおかつそのルールを聴衆に対して曖昧にすることにより成立しているとも言えます。
そのルールの発見と制定こそが「新しいアイデア」と呼ばれるものの正体です。
blacksheepはフリーインプロヴィゼイションのグループでもフリージャズのグループでもありません。もちろんそうした要素は演奏上の「戦略」として積極的に用いられますが。
ではなにか?といえばそれはやはり「ローカル・ルールに支えられた何か」としか言い様がなく、いわば「blacksheep」というジャンルの音楽であります。
(それは決して特殊な事ではなく、本来全ての音楽が持つ「秘」「謎」の部分なのですが)
・・・題名になぜ「夢」が多かったのか。
それは、音楽の論理構造は「夢の現象学」と通底する、という暗示なのでした。
と言いつつ・・・最近はまた違うモチーフに基づいて作曲しています。
なので「夢」のシリーズはしばらく書かないでしょう。
演奏においてはまた何度も「夢」が登場するでしょうが。
吉田隆一です。
何か書かないとトップの広告が消えないということに気がついたので(記事編集はブログ更新に認められません。律儀なシステムです)今後、雑記を書きつらねるコトにしました。
第一回は「ナゼblacksheepなのか?」であります。
活動開始直前のことですが。
鎌倉街道を車で移動しながらバンド名を考えていたのであります。
「動物」
というのがまずありまして。
じゃあ猫好きなので猫、ではなく
「あえて今回は草食動物から選ぼう」
と思って・・・ウサギ、じゃないな。シカでもなく・・・
「羊」
にしよう。
羊といえば羊飼い、というイメージから地の広がりと空の広がり、星の広がりを連想しまして。
一説によれば、中世までの羊飼いがたびたび預言をさずかっていたのは、そうした空間に常日頃身をさらしていた結果、トランス状態に陥りやすくなっていたからだとも。
それを言ったら海も広いですが・・・海は波や天候の変化が多く、例えば船乗りの場合、多くの「情報」が意識に入ってきます。
対して羊飼いの場合は、環境が穏やかで「情報」の流入が少なく、意識の内部でフィードバックが起きやすく・・・それであの満天の星空を観てトランスしていたら預言者にもなるでしょう。
現代の羊飼いは、日常の「情報」が中世までの羊飼いたちよりもはるかに多いでしょうから、そんなことも少ないのでしょうが。
その構造は、ミニマルミュージックにおける情報量変化のシステム
(同じ情報を延々与え続けると時間の経過と共に受け取る「情報量」は減る。なので同じ情報を与え続けた後のわずかな変化は(相対的に)大きな情報の変化として感じられる)
にも通ずる・・・気がしないでもない。
イイじゃないですか。
羊は・・・Sheep。
何か「色」をつけるか。
なら「黒」だろう。
black sheep
イイですね。
・・・
帰宅してから辞書をひくと、black sheepには
「厄介者」
の意味があるコトに気がつきました。
イイですね。
で、blacksheepになりました。
・・・「黒羊の昼寝言」第一回はこんなところで。